グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



TOP >  伝えたいこと >  伝えたいこと2007 Vol.08

伝えたいこと2007 Vol.08


大学とは知力を鍛える場である
泉 寛幸(教授・ライフデザイン専攻)
社会は一般に「大学卒業者(大卒)」には「高卒」より広い就職先を提供し、より高い給与を支払っている。「大卒」というブランドを持っているからではない。「大卒は高卒以上により高い「知力」を発揮した働きをしてくれる」と期待しているからである。

ところが「大学とは『大卒』というブランドを手に入れるところだ」としか考えなかった学生はその4年間で、ブランドに見合った「知力」を身につけるという訓練をしてこない。「知力」を身につけ得なかった大学卒業生は高卒社員より働けない。「あんたそれでも大卒かい?」という不満を身に受けながら、仕事をしていかなければならないのが現状である。

大学生が身につけなければいけないのは「大学卒業」というブランドでなく、「大学卒業生」にふさわしい「知力」である。「大学とは知力を訓練して身につける場である。」

知力は授業中にただ座っていれば身に付くものでもないし、ましてや授業をさぼってバイトや遊びに行って身につくものでもない。わけのわからない先生の話を少しでも理解しようと頭を使い、難しい文章の書いてある教科書や論文の中味を少しでも理解しようと頭を使い、うまくまとまらないレポートや論文を少しでもまとまりのあるものにしようと頭を使い、状況や思考を適切に説明できそうなことばや文章を一字一句ひねり出してスピーチや文章として表現しようと頭を使う、という過程で身につくものである。

「先生の授業はわかんない。もっとやさしくして。」という学生がいる。「やさしい話」にすればわかったつもりにはなる。しかし知力は身につかない。「やさしい話で解説した本」は大学や地域の図書館にいっぱいある。それらを自分で調べれば知力は身につく。しかし、授業でやさしい話をしてくれることを教員ばかりに期待し、理解するために自分で調べようとしない学生には、知力は身につかない。

「先生、単位をください」という学生がいる。単位とは知力を身につけていけば手に入るものであり、教員が勝手に学生に与えるものではない。「ください」といわれて与えたら偽ブランドになる。

「大学なんか意味がない」という人々がいる。彼らは、社会で生きていく過程そのものを通して自分に必要な「知力」を身につけようとしているのだろう。しかし大学の本来もつ意味さえ理解していない人々が、自分に必要な「知力」を社会から適切に学び取れる学習理解力を有しているのだろうか。「中卒」「高卒」で成功している人はいる。しかし大部分の「中卒」「高卒」の人が「大卒」と同等に成功しているわけではない。私は「学歴主義」を主張しているわけではない。「学歴」というブランドでなく、「大卒」というブランドに見合う以上の「知力」を身につける必要性を主張しているのである。

(以上、えらそうなことを書いてしまったが、私自身の苦い失敗体験から得た教訓である)

泉 寛幸 (Hiroyuki Izumi)

プロフィール

電気通信大学大学院 電子計算機学専攻修了(1980年)後、名古屋大学大学院工学研究科満了(1983年)。株式会社富士通研究所(1983年~1998年)を経て、愛知学院大学情報社会政策学部(1998年)。電子情報通信学会、情報処理学会、人工知能学会に所属。

研究分野・専門分野

  1. マルチメディア情報処理:ネットワーク上の文書・画像・音声の情報処理方法の調査研究
  2. 情報システムの社会的影響:ユビキタスコンピューティング等
  3. 数理モデル:コンピュータ上に複雑な情報をどのように表現するか