伝えたいこと2007 Vol.10
赤頭巾ちゃん、ファッションに気をつけて
岩田 和男(教授・情報コミュニケーション担当)
岩田 和男(教授・情報コミュニケーション担当)
「ファッションは個性を表す!」とよく言います。でも、これっておかしくありませんか?
「ファッション」という外来語の原語、"fashion" の本義は「流行」なんです。だから、ほぼ誰もが思い込んでいる「ファッション=服装」という定義は、「=流行服」と言い換えなければいけません。
ということは、「ファッション=世の中にたくさん出回っている既製品」ということになり、世の中のたくさんの人が自分と同じ服装をしている可能性がかなりあることになります。これでは、個性を表すことはできないでしょう。だって、個性重視とは「オンリー・ワンであることが大事」という思想なんですから。
いやいや大丈夫、僕 / 私は気をつけているから、というみなさんからの反論の声が聞こえてきそうです。そういう、誰かが着ているかも知れないような「ありふれたもの」を買わないように、「オンリー・ワン」の服を買うように気をつけているのだ、とね。そのために高いお金を払っているんだ、と。
でも、忘れちゃいけません。それは「売り物」、商品なのです。当然、マーケティング戦略というものがあって、そう易々とは街角で同じ服装に出会わないように調整をしているはずです。だからこその値段の高さなんですね。
その意味では、究極の個性的服装とはオーダー(注文)服ということになるのでしょう。でも、ここで困った矛盾が生じてきてしまいます。それでは肝心のファッションになりません。一人だけの個性的表現では流行になりませんからね。
ジンメルという社会学者が、「流行」という社会現象について大変面白い議論をしています。その一つに、流行とは「分離と結合」が同時におこる現象である、というのがあります。つまり、流行服を着るということは、その服を着ているあるグループに自分は参入する、という結合の表明であり、それは同時に、その服を着ていないグループとは自分は違うんだ、という分離の表現でもある、という意味です。
これは言うまでもなく、貨幣経済社会のカリカチャー(戯画)です。だって、モノを買うことで、あるグループに属したり離散したりできるということは、移動がかなり自由な平等な社会でなければ起きません。購入できるだけの財力があるということ以外、なんの社会的障害(たとえば身分の違いとか)もない、すなわち自由な社会ということになるからです。しかもその社会は、購入が誰にでも可能なほど、貨幣が浸透している消費社会であるはずです。要するに、今の社会ですね。そう、私たちの世界です。そうすると、最初に言った「ファッションは個性を表す!」のテーゼは、こう言い換えなければなりません。私たちは消費社会という平等な社会にいるからこそ、「個性」で他者との差別化を重視したいと思っている。そして、その個性をファッションで表すことで、誰かと結びつきたい(グループ化したい)と思っている。そういう無意識の願望をワン・フレーズにすると冒頭の言葉となるのですね。
で、私が伝えたいことです。この分離と結合という相矛盾した特徴を持つ「流行」という社会現象を、「ファッション=個性の表現」と信じたい私たちの心理と結びつけてみましょう。そうすると、こういうことが言えないでしょうか。「どの服装を選ぶかということが、どのグループに属しているかの無意識の表明になる」と。
女性の社会進出が目覚しい時代です。おそらくそれは世界の潮流とも言うべき未曾有の大きな社会現象です。そこへもってきて、盛んに言われる「格差の時代」。この二つを重ねた上で、上のファッション論の意味するところを再度考えてみます。社会進出が進むと、収入格差は広がります。それがファッションにそのまま直結していく。どの服装を選ぶかが、おのずとどのグループに属するかの表明になってしまう時代。ジンメルが流行は民主主義のカリカチャーだと言うはずです。ファッションによる擬似階層化。
くれぐれも、ファッションには気をつけてくださいね!
「ファッション」という外来語の原語、"fashion" の本義は「流行」なんです。だから、ほぼ誰もが思い込んでいる「ファッション=服装」という定義は、「=流行服」と言い換えなければいけません。
ということは、「ファッション=世の中にたくさん出回っている既製品」ということになり、世の中のたくさんの人が自分と同じ服装をしている可能性がかなりあることになります。これでは、個性を表すことはできないでしょう。だって、個性重視とは「オンリー・ワンであることが大事」という思想なんですから。
いやいや大丈夫、僕 / 私は気をつけているから、というみなさんからの反論の声が聞こえてきそうです。そういう、誰かが着ているかも知れないような「ありふれたもの」を買わないように、「オンリー・ワン」の服を買うように気をつけているのだ、とね。そのために高いお金を払っているんだ、と。
でも、忘れちゃいけません。それは「売り物」、商品なのです。当然、マーケティング戦略というものがあって、そう易々とは街角で同じ服装に出会わないように調整をしているはずです。だからこその値段の高さなんですね。
その意味では、究極の個性的服装とはオーダー(注文)服ということになるのでしょう。でも、ここで困った矛盾が生じてきてしまいます。それでは肝心のファッションになりません。一人だけの個性的表現では流行になりませんからね。
ジンメルという社会学者が、「流行」という社会現象について大変面白い議論をしています。その一つに、流行とは「分離と結合」が同時におこる現象である、というのがあります。つまり、流行服を着るということは、その服を着ているあるグループに自分は参入する、という結合の表明であり、それは同時に、その服を着ていないグループとは自分は違うんだ、という分離の表現でもある、という意味です。
これは言うまでもなく、貨幣経済社会のカリカチャー(戯画)です。だって、モノを買うことで、あるグループに属したり離散したりできるということは、移動がかなり自由な平等な社会でなければ起きません。購入できるだけの財力があるということ以外、なんの社会的障害(たとえば身分の違いとか)もない、すなわち自由な社会ということになるからです。しかもその社会は、購入が誰にでも可能なほど、貨幣が浸透している消費社会であるはずです。要するに、今の社会ですね。そう、私たちの世界です。そうすると、最初に言った「ファッションは個性を表す!」のテーゼは、こう言い換えなければなりません。私たちは消費社会という平等な社会にいるからこそ、「個性」で他者との差別化を重視したいと思っている。そして、その個性をファッションで表すことで、誰かと結びつきたい(グループ化したい)と思っている。そういう無意識の願望をワン・フレーズにすると冒頭の言葉となるのですね。
で、私が伝えたいことです。この分離と結合という相矛盾した特徴を持つ「流行」という社会現象を、「ファッション=個性の表現」と信じたい私たちの心理と結びつけてみましょう。そうすると、こういうことが言えないでしょうか。「どの服装を選ぶかということが、どのグループに属しているかの無意識の表明になる」と。
女性の社会進出が目覚しい時代です。おそらくそれは世界の潮流とも言うべき未曾有の大きな社会現象です。そこへもってきて、盛んに言われる「格差の時代」。この二つを重ねた上で、上のファッション論の意味するところを再度考えてみます。社会進出が進むと、収入格差は広がります。それがファッションにそのまま直結していく。どの服装を選ぶかが、おのずとどのグループに属するかの表明になってしまう時代。ジンメルが流行は民主主義のカリカチャーだと言うはずです。ファッションによる擬似階層化。
くれぐれも、ファッションには気をつけてくださいね!
プロフィール
名古屋大学大学院文学研究科博士課程前期課程英文学専攻修了。大阪府立大学総合科学部(1979~1984年)、愛知学院大学教養部(1984~1999年)、米国プリンストン大学客員研究員(1996~1997年)を経て、1999年から愛知学院大学教授。日本英文学会、日本アメリカ文学会(編集委員)、日本比較文学会に所属。
研究分野・専門分野
モダニズムの比較文化論
英米と日本の文学・映画作品を題材に、国家の枠を超えて相互に影響しあう関係を一種のコミュニケーションと捉え、その極めてモダンな文化交流の政治力学(ここにもう一つのテーマ、ジェンダー論が関係してくる)を探っている。見据える地平は言うまでもなくポストモダニズムである。
英米と日本の文学・映画作品を題材に、国家の枠を超えて相互に影響しあう関係を一種のコミュニケーションと捉え、その極めてモダンな文化交流の政治力学(ここにもう一つのテーマ、ジェンダー論が関係してくる)を探っている。見据える地平は言うまでもなくポストモダニズムである。